大江戸ミシュランに『豆腐百珍』。ベストセラーが続々生まれた江戸のグルメ本
戦国武将は皆長生きだった!【和食の科学史⑬】
■人の体はみな同じ
『飲食養生鑑』の冒頭には、こう書かれています。「身分の高い者も低い者も、賢い者も、おろかな者も、みな体内はこうなっている」。体のしくみは誰でも同じだ、ということです。
家柄を優先する封建制度は江戸幕府の大きな柱の一つでしたが、士農工商として知られる江戸の身分制度は、ヨーロッパの階級社会とは根本的に違っていました。それぞれの身分のなかでも貧富の差、力の差が大きく、豊かな農民もいれば生活苦にあえぐ武士もいたのです。
この傾向は時代が進むにつれて強まり、裕福な農民や商人のなかには金で武士の地位を買う者すらあらわれました。江戸時代後期に『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴は孫を武士にしていますし、幕末から明治にかけて活躍した勝海舟の曾祖父は、農民の生まれでありながら大金持ちになり、海舟の祖父を武士にしています。
こんな社会状況において、人の体はみな同じという事実は自然に受け入れられたことでしょう。封建社会の崩壊とともに、江戸幕府は終わりを迎えようとしていました。
1858年、日米修好通商条約が結ばれ、日本は開国します。それと前後して、とんでもない病気が入ってきました。弥生時代に稲作とともに侵入したのは結核でしたが、今回はコレラが上陸したのです。
コレラ菌に感染すると、一日に10リットルから数十リットルもの便が出る激しい下痢が起き、脱水状態におちいります。とくに、当時世界中で流行したタイプのコレラは病気の進行が速く、2、3日で死亡することもあったため、「三日ころり」と呼ばれました。
日米修好通商条約が調印される直前に日本にコレラをもたらしたのは、大陸経由で長崎にやってきたアメリカ船でした。あっという間に感染が広がって、一ヵ月後には江戸におよんでいます。江戸の町には死者があふれ、火葬場には棺が山と積まれました。コレラの流行はその後も繰り返し起こり、明治13年までに16万8000人がコレラを発症し、10万人が亡くなっています。
火葬は仏教とともに日本に伝わったとされ、701年に制定された大宝律令は火葬を奨励しています。仏教では火葬を荼毘といい、お釈迦様が茶毘にふされたことから、位の高い貴族や豪族のあいだで火葬の習慣が広がりました。庶民への普及は遅く、江戸時代になっても土葬が大部分だったようですが、疫病の流行で多くの人が亡くなると土葬が間に合いません。やむなく火葬にしたのでしょう。
感染症の蔓延を防ぐ意味からも火葬のほうが望ましく、明治時代になると、伝染病で亡くなった人は火葬にするよう、自治体に義務づける法律が制定されます。
この時代に、すでにヨーロッパでは、コレラが伝染病であり、汚染された水を飲むと感染が広がることが知られていました。日本に来ていたオランダ人医師らは、生水、生ものの摂取を禁じるなどの予防法を長崎奉行に伝え、実際にコレラの発症数をおさえるのに成功しています。
このときの経験は、のちの明治政府による伝染病予防法の成立に生かされます。また、西洋の蘭方医学のほうが大陸の伝統医学よりすぐれている、これからは西洋に学ぶべきだ、という声が強まるきっかけになりました。
(WEB連載は今回が最終回になります。明治以降の和食については、連載をもとにした書籍に収録予定です。お楽しみに。)